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BDレコーダー

2017年 7月 21日

筆者の自宅で使用しているTVは2KのSHARPのAQUOSのテレビで、
BDレコーダーもSHARPのBD-H51というHDD500GBのレコーダーです。
このBDレコーダーは地上デジタルハイビジョンの動画番組を約62時間ほど録画することができます。
1チューナーの1番組予約録画できる仕様です。
2KTVのAQUOSもBD-H51レコーダーも購入してから現在まで使っていて特に問題は感じてはいません。

家電店でBDレコーダーを取材
行きつけの家電店でBDレコーダーの近況を取材してみました。
まず、容量が増えてきています。
現在では1000GBが標準的に売れているそうです。
HDD1000GBということは地上デジタルハイビジョンを約126時間ほど録画できます。
そして、チューナー数が増えました。
1チューナーで1番組予約録画できるので、2チューナーだと2番組、3チューナーだと3番組をというように同時録画できるようになります。
SHARPのBDレコーダーではチューナー数が1~3チューナーの仕様です。HDDは500GB~3000GBまでの仕様で、4K対応のレコーダーまで出ています。
2チューナーで2番組同時録画できて、容量がHDD1000GBのBDレコーダーが標準的にオススメされていてよく売れているそうです。
そして、PanasonicのBDレコーダー「ディーガ」だと全番組録画機能のレコーダーが発売されています。
Panasonicのディーガの全番組録画の機能のBDレコーダーはチューナー数が7~11、HDD容量は2000GBから7000GBの仕様で売られています。
Panasonicのディーガの中の一般的な自分で予約録画するBDレコーダーのシリーズはチューナー数が1~6チューナーまででHDD容量500GB~2000GBの仕様で売られています。
高画質に特化した仕様のBDレコーダーも出ています。
SHARPの高画質TVレコーダーはAQUOS4KレコーダーでTU-UD1000という商品が出ています。内臓HDD1000GBです。
SHARPからもPanasonicからも販売しているシリーズの中にULTRA HD Blu-ray対応の仕様の製品が出ています。

外付けのHDDは?
外付けのHDDは記録できてもBDに書き込むことはできません。
TV用に使う外付けHDDはTVの実機が買い替えたりなどで別のものに接続するとそれまでの以前のTVの実機で録画して見ることができたデータが消失してしまうそうです。
ですので上記のような弊害の無いTV用のBDレコーダーにも強みがあります。
またBDに書き込めることもできるのもBDレコーダーの強みのようです。

記録媒体MDとその後

2017年 7月 18日

2000年前後筆者は当時高校生でした。
高校生になってまずMD・CD・カセットテープ・ラジオ対応のSONYのコンポを購入しました。
そしてSONYのMDウォークマンを購入しMDを頻繁に買って使うようになりました。
CDの音楽データをコンポでMDに音楽データを記録してはMDとMDウォークマンを持ち歩いてはそれで音楽を聴いて使っていました。高校生当時は本当によく使いました。
たくさんのJAZZや洋楽のCDをMDに記録して今でも箱二つに入れてとってあります。
MDは国内では普及しましたが海外では全く普及されることなく衰退していってしまいました。
MD対応のPCの実機も身近なところに存在しませんでした。
コンポで快適にMDとMDウォークマンを使えていたのに残念でした。

筆者の家庭での身近なものの変遷
その後2000年代前半はゲームもできてDVD鑑賞もできるので一石二鳥ということでPlayStation2を購入してテレビに接続して楽しむようになりました。自然に映画などのDVDに触れるようになっていきました。
それから家族から古くなって買い換えて使えなくなったiPodをお下がりで使うようになりました。
そして2000年代後半に大学生になって、PCとウォークマンやiPodで音楽データを同期して聴く方式が主流になっていきました。大学生時使用したVaioのノートPCにSONYのSonic StageとiTuneをインストールして同期してウォークマンやiPodを使ってました。
また、両親の自宅ではSHARPのブルーレイレコーダーとAQUOS液晶テレビを買っていました。
いつのまにか完全に記録媒体はDVDとBDが主流になっていました。

その後は音楽データがスマホでハイレゾで聴ける時代がやってきました。
筆者も2016年に携帯電話をスマホに買い換えてハイレゾ対応で音楽も聴けるようになりました。
PCからUSB・microUSB typeB端子で接続して音楽データをスマホのmicroSDXC内のMusicフォルダに転送してスマホで聴いたり、PCを使いながらPCに入れた音楽を聴いて使ったりもしています。
スマホは電話やメールなどの機能だけではなく、デジカメの機能や、音楽を聴く機能も十分に果たすようになってきています。

MDはグローバルな普及を果たすことがうまくできませんでした。
しかしMDはディスク自体がプラスチックの内に隠れているため、わりと傷付くこともなく現在も自宅に保管されています。

自家製梅の実の食用加工

2017年 7月 14日

筆者の実家の庭には梅の樹があります。
実家の梅の実の収穫は4月の終わりから5月のはじめでした。
今年は梅の実がたくさんとれました。
梅の実は結局今年は実家から6kg、岡崎の畑から2kg計8kg貰ってきました。
1kg分梅の梅醤(うめびしお)と残りは自家製梅干しとを作りました。

自家製梅干しつくり
梅の実を収穫してから自宅の風通しの良い日陰のところに2・3日置いておきます。
2・3日経って梅の良い香りがしてきたら一晩か半日水につけます。
こうして水につけることで食べた時に種がとれやすくなります。
水につけた後の梅の実を大きさ別にだいたいで一つ一つ選別します。
その時に一つ一つの梅の実のヘタを楊枝で取り除きます。
そして水切りをして水切りした後の梅を焼酎で洗います。
我が家では梅の実1kgあたり50cc程度の焼酎で洗います。
洗った後の焼酎は捨てます。
焼酎が乾ききらないうちに10%~20%の重さの塩を梅の実にまぶします。
(このときカビにやられない程度でおいしくなる程良い量の塩をまぶすのが秘訣です)
消毒した容器に入れて軽く重石を載せて塩によって梅から出た水分の水が上がるのを待ちます。

赤紫蘇を1kgに一束くらいの量で塩で揉んで少量の梅酢でさらにそれを赤くなるまで揉みます。
梅酢と塩であと2回くらいさらに揉みます。
そうして梅の実に載せる赤紫蘇の下ごしらえをしておきます。

梅の実のほうは重石で梅の実の水分が上がりきったらこの下ごしらえした後の赤紫蘇を載せて土用(今年は7月の19日です)・梅雨明けまで待ちます。
この日にちを過ぎたら梅を竹ざるに取り出して干します。
梅干しは酸が強いため容器に金属付属のものを用いるのには向かないです。
梅干しの保存には金属のものは厳禁なのです。
梅干しが1日で乾いたらもとつけこんでいた梅酢に戻して1日(若しくは一晩)置き、そしてもう1日干して乾いたら梅干しのできあがりです。
出来上がった梅干しは別に容器に入れます。容器は上記のように金属・金属付属のものは避けましょう。

自家製梅醤(うめびしお)つくり
我が家には梅醤作りに梅の実1kgを使いました。
1kgの梅に5%の塩50gと赤梅酢(梅干し作りに使用したつけこんでいた梅酢を活用しました)を100ccほど加えて水気がなくなるまで混ぜます。消毒した保存ビンに入れて保存します。
梅醤はほうじ茶と水で熟した梅の実(保存ビンに入った上記の梅)を30分くらい煮て作ります。
熟した梅の実ならば多少傷んだ梅の実も使えます。
ほうじ茶で煮込んだ後ほうじ茶を捨ててもう一度煮込んだ梅の実のほうを水で10分ほど煮込みます。
上記のような煮る工程は要は梅の実の毒抜きの意味があるかと考えられます。
梅醤は風邪や夏バテ予防向きの調味料です。お吸い物に使われたりしています。

乾電池の歴史

2017年 7月 11日


1780年、イタリアの生物学者ガルバーニという人が、カエルの足の神経に2種類の金属をふれさせると電流が流れ、足の筋肉がピクピク動くのを発見したました。これが電池の原理の始まりといわれています。
世界最古・つぼ型電池 「バグダッド電池」イラクの首都バグダッド郊外のホイヤットラブヤ遺跡から発掘されたのが、つぼ型電池です。約2000年以上前のもので、電気をおこすためではなく、金銀のメッキのために使われていたものと考えられています。
電圧は1.5~2ボルト、電解液が何でできているのかは、はっきりとわかっていませんが、酢やブドウ酒などが使われたものと想像されます。
銅と亜鉛を電解液となる希硫酸や食塩水などに入れると、銅は原子がほとんど溶けず反対に亜鉛は原子が溶け出して電子が出ます。 そのため銅は+極に亜鉛は-極となり、この2つを導線でつなぐと銅から亜鉛に電気が流れます。これが現在の化学電池の原型、ボルタ電池と呼ばれるものです。
発明したのは、イタリア人のボルタという人です。だから「ボルタ電池」と呼ばれています。1800年のことです。
さらに1868年、フランス人のルクランシェという人が「ルクランシェ電池」を発明しました。これは現在の乾電池の母体となるものでしたが、塩化アンモニウム溶液がこぼれたりして不便なところがありました。 1888年、ドイツ人ガスナーは、液がこぼれない電池を発明しました。水分はあってもこぼれないことから、ガスナーの発明は「乾いた電池」(=乾電池)と呼ばれています。
その3年前の1885年、日本人の屋井先蔵という人も独自に乾電池を作っています。明治43年(1910年)には、合資会社屋井乾電池を設立し、神田区錦町一丁目に販売部を新築するとともに、浅草神吉町に乾電池の製造工場を設け、乾電池の本格量産にとりかかりました。筒型の金属ケースを用い、現在の乾電池のスタイルを確立しています。屋井乾電池は海外品との競争にも勝ち、日本国内乾電池界のシェアを掌握し、屋井は乾電池王とまで謳われるようになりました。

オートバイ

2017年 7月 7日

浜松のオートバイ産業は、昭和初期に遠州織機という会社がオートバイの製作を着手しましたが、製造業の多くが軍需品生産に移行する当時の状況の中、完成間近で頓挫してしまいました。
本格的な浜松のオートバイ産業は、太平洋戦争の浜松大空襲で焼け野原になった浜松の街から出発しました。
昭和21年(1946)、本田宗一郎が、陸軍で使用していた無線用小型エンジンを改良し自転車に取り付け試走したのが、浜松のオートバイ製造の始まりでした。本田は浜松市山下町にあった木造バラックの機械加工工場に本田技術研究所を設立し、原動機付自転車を製造・販売をしました。
昭和22年(1947)本田は既存の小型エンジンの改造ではなく、独自のエンジン開発に着手して「A型エンジン」を完成させました。山下町にあった工場の前には、通称六間道路が東西に通っていました。研究所の所員は、この六間道路を幾度も試走して、A型エンジンを積んだ原動付自転車を完成させました。
昭和23年(1948)には野口町の織物工場を買収し、エンジン組み立て工場に改造しました。原動機付自転車に満足していなかった本田は、BMWなどの外国のオートバイを手当たり次第に分解し、研究開発を進め、昭和24年(1949)にドリーム号という本格的なオートバイを浜松の工場で完成させました。
昭和27年(1952)に、本田はオートバイ販売の全国展開を進めるため、本田技研工業の本社を浜松から東京へ移転しました。この東京移転の最中、白いタンク・赤いエンジンカバーのカブF型が生産され脚光を浴びました。カブF型は、自転車に簡単に取り付けでき、女性でも気軽に運転できる原動機付自転車でした。
本田技研工業では全国の自転車販売店5万5千軒にダイレクトメールを送付し、全国から注文が殺到しました。この、カブF型が爆発的な売れ行きで、当時業界全生産の70%を占めた時期もありました。これに刺激を受け、全国でオートバイメーカーが濫立し、浜松にも30社以上のオートバイメーカーが生まれました。
この時期、設立したメーカーには、本田に無線用小型エンジンを提供した犬飼兼三郎のヤマトラッキー(ヤマト商会)、本田の弟子の伊藤正のライラック(丸正自動車製造)などがあります。多くのメーカーは昭和27年から28年にかけて登場し、一部のメーカーを除いてわずか1~2年で廃業や転業してしまいました。
昭和29年(1954)、浜松市葵町の旧陸軍飛行場跡地に本田技研浜松製作所を設立し、ホンダの二輪生産の拠点となりましたが、平成20年(2008)に熊本製作所に二輪生産を移しました。
中区山下町のホンダ発祥の地は、現在マンションが建っています。しかし歩道沿いにホンダ発祥の地の説明板があります。

ハサミ

2017年 7月 4日


ハサミとはふたつの刃でものをはさんで切る道具のことです。形態としては、かしめが支点になっており支点が刃(作用点)と握りの中間にあるいわゆる洋ハサミと、中間部がバネになっており支点が刃から離れている握りハサミ(和ハサミ)があります。
古代エジプトの壁画にハサミやピンなどが描かれており、また紀元前1000年頃の古代ギリシャのものとされるハサミが出土しており、古代から使われていたと考えられている。元々は医療用や羊毛の収穫に使われており、当初は握りハサミが使われていました。
かしめ部がある形式(日本で洋ハサミと呼ばれている形式)が登場したのは西洋では古代ローマ以降の時代、東洋では唐の時代以降だとされています。
日本では6世紀に中国を通して伝わったと考えられており、この時代の古墳からの出土例もあります。古代、中世には主に握りハサミが用いられ、また金属製のものの他に木製のハサミも作られていました。ただ裁断などの用途には伝統的にハサミではなく刃物が用いられていたので、ハサミの普及は職人や華道家など限定的なものでした。

握りハサミ
かしめ部を持たない原始的な構造のハサミです。握りハサミは、通常1枚の細長い金属板の両端に刃がつけられ、これをU字形に曲げて中間部がバネ状にしてあります。英語ではspring scssorsと呼ばれています。日本では和鋏とも呼ばれていますが、日本で発明されたわけではありません。
ただし、現在も広く生産、使用されているのは世界でも日本のみです。しかし、日本でも現代では洋鋏が主流であり、和鋏が使用されるのは糸切り鋏や飴細工用など限定された用途のみで使用されています。

洋鋏
洋鋏は通常2枚の細長い金属板が支点を中心軸として重なり合う構造となっており、それぞれの金属板の内側に向かって刃がつけられ、2枚の刃が交わった部分が閉じていくことで間に挟んである紙や布などが切断される仕組みです。構造的には第1種てこの構造を持っていて、2枚の刃の部分が作用点、刃をつなげる部分が支点、反対側の持ち手の部分が力点となります。
洋鋏は使用していない時には安全のため閉じられていることがほとんどで、先端の刃の部分を覆うキャップやカバーを付けるものも存在しています。

その他にも右利き用、左利き用などがあります。

テレビの歴史

2017年 6月 30日

1987年ドイツの発明家ブラウンによってブラウン管が発明され、1925年にはイギリスのベアードが二ポー円盤による機械方式のテレビ実験に成功しました。その頃日本では電気工学者の高柳健次郎らが当時としては画期的だった電子式装置によるテレビの開発に取り組んでおり、1926年12月25日に世界で初めてブラウン管による「イ」の字の電送・受像に成功しました。
実験装置は、送像側に機械式の二ポー円盤を、受像側に電子式のブラウン管を用いた折衷方式でした。1933年にアメリカのツヴォルキンが電子式撮像管アイコノスコープを発明すると、高柳氏らも独自でアイコノスコープを試作し、1937年には走査線441本、毎秒30枚と言う当時では世界最高水準の全電子式テレビ受像機を完成させました。高柳氏はその後も日本におけるテレビ放送の実用化に大きく貢献し日本のテレビの父として多大な功績を残しました。
欧米各国でテレビ放送の実用化準備が進められるなか、日本でも1939年5月13日にNHKが日本初となるテレビの公開実験を行いました。そして、1940年には日本初のテレビドラマの実験放送も行われたのですが、1941年の戦争のせいでテレビの研究は中断を余儀なくされ、日本におけるテレビの実用化は1946年の研究解禁を待つことになりました。
1953年2月1日NHKがテレビ本放送を開始しました。8月28日には民放のトップを切って日本テレビが本放送を開始しました。しかし、当時はテレビ受像機の価格が高く、なかなか受像機が普及しませんでした。そこで登場したのが街頭テレビでした。デパートや駅や公園などに設置された街頭テレビには多くの人々が集まり、テレビに映し出されるプロ野球やプロボクシングや大相撲などに熱狂しました。
ちなみに国産第1号テレビは1953年1月に発売されシャープ製で、価格は175000円でした。当時の公務員の初任給は高卒で5400円でしたから如何に高級品だったかがわかります。
今では大型化され薄型にもなり更なる進化を遂げているテレビですが当時の人々にとっては夢のまた夢と言った存在だったのでしょう。

ラジオ

2017年 6月 27日

ラジオが世界に初めて登場したのは1900年で、カナダの電機技術者レジナルド・フェッセンデンが、距離約1マイルでの、音声の送受信に成功しました。彼はその後もラジオの改良に取り組み、1906年12月24日にアメリカのペンシルベニア州でクリスマスの挨拶をラジオでしました。
それ以降、世界各地で実験、試験的なラジオ放送が行われましたが、アメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグのKDKA局が1920年11月2日に世界初の公共放送を行ったとされています。最初の放送はアメリカ大統領選挙の開票結果でした。
日本にも世界のラジオ放送のニュースは伝わり、ラジオ放送の実験があちこちで行われました。1923年に関東大震災が発生し、情報伝達メディアとしてラジオの必要性が認識されるようになり、ラジオ放送の開局を急がせたと言われています。
1925年3月22日午前9時30分に、日本初のラジオ放送が社団法人東京放送局によって発信されました。当時のラジオの性能はあまり良くなく、発信源である東京23区外では良く聞こえないものでした。その後、大阪、名古屋でもラジオ放送が始まり半年で10万人、1年で20万人を突破し目覚しい普及を見せたのでした。
その後も改良され続け当初よりコンパクトで高性能のモデルも誕生しましたが、1960年ころのテレビの普及によってラジオの視聴者が減りましたが、世界中のラジオ放送を聞くことが出来るインターネットラジオの登場によって、現在、視聴者が再び拡大し始めています。さらに衛星や地上デジタルラジオも加わり、従来のアナログ放送と共にラジオの多様化が進んでいます。
1995年に起きた阪神・淡路大震災や2011年東日本大震災では乾電池で動く携帯ラジオだけが災害状況を知るための唯一の手段だったと言われています。災害時、停電が起きても使用できるラジオが最も重要な情報源であることは間違いないでしょう。

エアコン

2017年 6月 23日


エアコンの始まり
エアコンつけてとかエアコン買い替えたいなと普段何気なくエアコンと言う言葉を使っていますが、そもそもの由来はどこにあるのでしょうか。エアコンがエア・コンディショナーの略語であることはご存知かと思います。
この名前の原点は1906年アメリカの織物工場内の湿度を保つために作られた仕組みエア・コンディショニング(空気調和)から来ているのだそうです。
パソコンが軍事目的、冷蔵庫が医療目的で開発されたのと同じで、エアコンも元々は家庭用ではなかったのです。

エアコンディショナーになった理由
エアコンディショニングのconditioningとは調整、調節と言う意味なのですが、英語では不可算名詞(数えられない名詞)として分類され、ものの名前としては不適切なのです。簡単に言うと、電気屋さんでエア・コンディショニングを1台下さいとは言えないということです。
それがエアコンの増産化、商用化の流れの中で、製品として数えられる名前が必要になったのです。こうした経緯から可算名詞(数えられる名詞)であるconditioner調整する人と言う言葉が使われるようになったとされています。

日本で普及した経緯とは
日本で本格的なエアコンが生産されたのは、戦後すぐのことです。当時はアメリカからの技術が積極的に取り入れられてきましたが、エアコンもそのうちの1つでした。
日本ではルーム・クーラーと言う名称で登場しました。その商品は①ウインドタイプである②大きくて高価③戦後経済の疲弊などの理由から、発売当初は家庭にはそれほど普及しなかったようです。ウインドタイプは室外機と室内機が一体化していて、窓枠にはめ込むように取り付けられるものですが、今でも時々古い木造アパートなどで見かけることもあります。
1960年以降に入ってようやく、セパレートタイプ(室外機と室内機が別々の型)や暖房、除湿機能を持った製品が本格的に登場し、高度経済成長の後押しと共に、爆発的に家庭へと普及していきました。このころから現在でも使われるルーム・エアコンと言う名称になりました。

ティッシュペーパー豆知識

2017年 6月 20日

今ではどの家庭にもたくさんあり、中には部屋ごとにあったりするとても身近なティッシュペーパーですが、どのようなきっかけで誕生したのでしょうか。
なんと実は元々は戦争の道具として開発されたのです。第一次世界大戦中、脱脂綿の代用品として開発されたのです。さらに吸収力を高めたものをガスマスクのフィルターとしても利用したのです。
1924年第一次世界大戦が終了した後、ティッシュペーパーは過剰に在庫が余っており、アメリカのキンバリー・クラーク社がメイク落とし用として「クリネックスティッシュ」を発売したのです。
それ以降アメリカではティッシュペーパー=クリネックスと言う名前が定着したのです。そして化粧落としに、使い捨てハンカチとして、布やタオルにとって代わったのです。
それまでの女性たちは化粧落としに布やタオルを使っていました。洗って何度も使うので、手間が掛かるし、非衛生的になりがちでした。そこに登場したのがティッシュなんです。女性たちには大歓迎されました。
そんなティッシュペーパーが日本に登場したのは1953年です。1963年には国産のスコッティ・トイレットティッシュ75mが山陽スコットから発売されました。クリネックスよりやや安価であったため広く浸透していきました。
翌年の1964年には、日本初の箱入りティッシュペーパーが発売されました。ところでティッシュペーパーの生まれ故郷のアメリカでは、家ではティッシュを使っても外出先での鼻かみはハンカチと言う人が多いようです。
ヨーロッパの各国も大体同じようです。その一方で日本人は圧倒的にポケットティッシュを使う人が多いですね。このポケットティッシュは実は日本生まれなのです。ティッシュペーパー発売の翌年に日本で発明されたのです。
このポケットティッシュが日本中に広まったきっかけとしては、1970年に富士銀行(現みずほ銀行)が口座開設の粗品として20万個配布したことをあげる説があります。
今では様々な業種で広告のためにポケットティッシュを配っている風景を目にします。新聞の折込チラシよりも効果があるとも言われています。しかし日本以外ではあまり見かけることはありません。
私が見たのは中国の北京と台湾の台北市で販促用のポケットティッシュを見かけたことがあります。偶然にも両方とも美容院のチラシでした。日本は世界屈指のティッシュ大国です。何と消費量はアメリカの3倍にもなるそうです。