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地デジ化

2016年 12月 16日

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皆さんが使っているテレビのお話です。今の日本はテレビがアナログから地上デジタルに完全移行しています。日本政府は2011年7月24日までに完全移行を目指して2006年頃から民間へ日本の完全地デジ化を働きかけてきました。

主に地デジ化を促すコマーシャルや地デジが観れるテレビの買い替えキャンペーンなどの実地を行っていました。その甲斐があって地デジテレビは2009年度には1,587万台、2010年度は2,571万台、2011年度は1,660万台という出荷台数を記録。年間900万台というテレビの基本需要を大きく上回りました。

地デジには従来のアナログに対して多くの利点があります。

地デジ放送の映像はアナログよりも高精細です。アナログの画質はSD画質とも呼ばれ、画面の大きさを表す解像度はは720×480でした。対して地デジの解像度はHD画質であり、最低でも1280×720の解像度があります。現在では更に上のフルHD(解像度:1920×1080)やそれを上回る4K(4096×2160 or 3840×2160)も放送可能なのです。

また、アナログ波より電波障害には全般に強く、ノイズや画質の劣化を防ぐことができました。この事もあって従来のアナログより映像が綺麗になりました。

しかし、地デジへの以降、テレビのHD画質化といった変化で割を食うことになる存在も有りました。任天堂のWiiです。当時Wiiは日本の主流であったSD画質に合わせた性能のゲーム機でした。それが2010年のHDテレビ普及以降になるとHDのテレビに画質が釣り合わなくなり、他のHD解像度対応のゲーム機に見劣りしてしまうようになったのです。その為、この頃からWii普及の勢いとPS3の普及の勢いが逆転しだしました。

その他にも東日本大震災の影響を受けた岩手、宮城、福島の3県は地デジ化の完全移行が遅れましたが2012年3月31日には地上アナログテレビ放送を終了しました。

こうして、一部を除き、1953年に放送が開始されたアナログ方式から2011年7月24日、地上デジタル放送へ完全移行しました。

電話の歴史

2016年 12月 13日

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電話の歴史についてご存知でしょうか。電話には誕生から現在の発展までに様々なエピソードがあります。今回はそのお話です。

電話の誕生は1876年2月14日午前11時頃、弁護士のG・G・ハバードがアレクサンダー・グラハム・ベルの特許明細書を提出し、同日午後1時頃にはイライシャ・グレイが予告記載書を提出しました。当時、アメリカでは出願申請の日付ではなく発明成立の日付が早いほうに特許が与えられるという決まりにより、1876年3月7日に米国特許174465号としてグラハム・ベルが取得しました。つまりベルはグレイより2時間早く電話の特許を取得したので電話の生みの親となったのです。

1877年にアメリカ合衆国から初めての輸出先として、日本に2台の電話機を送りました。この2機をもとにして1878年に日本製の電話機が作られます。その後、日本国内で工部省が電話の必要性を政府に強く訴えます。そして1890年に東京・横浜で電話サービスが開始され、1906年に太平洋横断の海底ケーブルが布設されました。この頃の電話の使用者は政府や軍などでまだ電話を使える人は限られていました。

1923年に起こった関東大震災の復旧をきっかけに自動電話交換機が採用されるようになりました。しかし、当初は市内電話に限られており、市外電話まで使われるようになったのは戦後からかなりたってからです。また、戦時中に使わていたトランシーバーをから電話の小型化が構想されるようになりました。

1963年(昭和38年)、日本電信電話公社によって制式化され、提供が開始されました。国が各家庭に黒電話を支給したのです。それから1985年に電話の民営化が始まります。同年にNTTが携帯電話「ショルダーホン」を発売。この製品の重さは約3kgでした。

その後、電話は携帯電話が小型化・多様化していきます。本体やバッテリーが小型化し、誰でも持ち歩けるようになり、カメラやインターネット、ゲームなど機能が追加されます。

そして2010年以降、iosやAndroidをOSとしたスマートフォンが世界で普及するようになります。アプリによって機能を追加できて拡張性が高く、タッチパネルで直感的な操作が可能で非常に便利なものとなりました。

今ではNTTドコモ、KDDI、ソフトバンクの大手3会社や格安スマホの事業者が通話サービスを提供しています。

電話の日進月歩によって今の生活はとても便利になったのです。

BDと第三世代規格戦争

2016年 12月 9日

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今ではBD(ブルーレイディスク)という光ディスクが発売・レンタルされています。BDはDVDの次世代メディアとされ、光ディスクの第三世代規格とされています。用途は主に映画やアニメを高画質な映像で再生したり、今世代のゲーム機のソフトとして使われています。今現在はDVDが現役のため、まだBDはDVDほど普及してはいませんが、実はBDは正式に採用され次世代メディアとして認定し、普及するまでに数々の困難をくぐり抜けてきた凄いメディアなのです。今回はそのBDのお話です。

BDの他にHD DVDという規格が存在していました。2000年代当時は双方はどちらもDVDのさらなる次世代の統一メディアの座を狙っていたのです。BD対HD DVDの規格争いはどちらにも多くのメーカーが参入し、VHS・ベータ規格以来の大規模な規格戦争となりました。DVD規格の時のように交渉で丸く収まる事態ではなかったのです。

両規格の争いは製品化より以前まで遡ります。
BD規格の原型となるのは1999年7月にソニー・フィリップスが発表したDVR-Blue規格です。この規格の製品化を目指して開発が進みました。2001年に松下電器産業や日立製作所、東芝、日本ビクターにより「二層相変化RAMディスク」を開発。どちらも読み込みレンズに青紫色レーザーを使用するものでした。

2002年、DVR-Blueと二層相変化RAMディスクの技術を統合した規格が開発。この年に両規格の名称が定まります。同年2月19日にBlu-ray Disc(BD)の規格が発表、更に5月には「Blu-ray Disc Foundations」というBDを普及させる為の会社を設立します。8月29日に東芝、NECは共同で青紫色レーザーを用いた第3世代光ディスク規格を提案し、11月26日にHD DVDという名称で正式に承認されました。2005年4月21日に両陣営が規格統一で交渉に入ったことが報道されました。しかし、交渉は決裂。こうして、両規格の争いの火蓋が切って落とされました。

2006年に両規格のメディアのソフトが発売されます。3月31日にHD DVDソフトが発売。6月20日にBDソフトが発売。この年の当初はHD DVDが先行販売を活かしてリードしました。しかし、11月にBDを採用したプレイステーション3が発売されると状況は一変しました。Dソフトの売上が飛躍的に増加したのです。年末商戦ではプレーヤー・レコーダーのシェアでBDが94.7%を占めBDの圧勝となります。翌年にはレンタル店がBDを支持するなどしてBDに需要が増しました。HD DVD側は巻き返しを図ろうとしましたが、その後は2度目の年末商戦でもBDとのシェア争いに敗北し、BDのシェアの拡大は広まります。2008年に入るとHD DVD側は敗戦濃厚となり、3月28日をもってHD DVD陣営の推進団体が解散しました。

こうしてBD対HD DVDの戦いは幕を下ろしました。VHS・ベータ戦争よりも早く決着はつきましたが、争いの規模はどちらとも世界を巻き込むほどの大規模なものでした。

SSD(ソリッドステートドライブ)

2016年 12月 6日

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パソコンのデータはストレージと呼ばれる記憶装置に保存されます。PCのストレージはHDD(ハードディスクドライブ)をPCに設置してデータを保存するのが主流です。しかし、今世代に入るとSSD(ソリッドステートドライブ)をHDDの代わり、もしくは併用してストレージとして扱う方も増えてきました。ここではそのSSDについてのお話をしようと思います。

まずHDDは円盤を高速回転し、磁気ヘッドを移動することで、情報を記録し読み出す記録装置です。対してSSDは半導体素子メモリを用いています。これが大きな違いです。主な用途はPCのOSデータといったアクセス頻度の高いファイルをこの装置上に記憶させておくことで、ディスクドライブで必要とされるアクセス時間を大幅に削減することが可能となります。要するに読み込みが速いのです。特にOSの起動に関しては劇的な改善が見られます。HDDとのアクセス時間のスピードを比較すると約100万倍速いという事もあります。ならば良いこと尽くめではないか、と思う方もいるかもしれませんがSSDはHDDと比較して勝っている点がありますが劣っている点もあります。

双方を更に詳しく比較すると、
SSDのメリットは機械動作音が少なく、前述のアクセス速度が速い。更に省エネで可動し、耐衝撃性が強い、スペースを小さく済ませる事が出来るといった点。HDDのメリットは安価で大容量、データの長持ちがSSDより良いとされています。前述のOSデータの保存に向いているとされているのはOSデータは書き換え回数が少ないからです。書き換え回数が多いとSSD内部が劣化します。

しかし、HDDの安価で大容量という点は次第にその差は埋まりつつあります。更なる容量単価の減少と総容量の増加が進んでいるのです。

SSDは日々進歩を遂げています。SSDのコストダウンが進めば一般向けのパソコンはSSD搭載が標準になる可能性もあるのです。

乾電池

2016年 11月 25日

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乾電池を使う機械は昔に比べると少なくなっています。1990年代までは持ち歩きする機械のほとんどは乾電池を使って起動していました。しかし、機械に内蔵する内蔵型バッテリーの発展によって乾電池の用途は限られるようになったのです。今回はその乾電池の用途と歴史についてお話します。

乾電池とは一次電池という分類に入ります。一回限りの使用で使い捨てるものが一次電池、充電して繰り返し使うものが二次電池です。乾電池のサイズの規格は単1形から単6形までありますが、日本では単6形は規格外です。主に単3形と単4形がラジオなどの小型電子機器に広く使われます。蓄えられている電池容量は単3形を基準にすると、単4形の電池容量は約半分、単2形は約3倍弱、単1形は約5 – 6倍となります。主流は単3形ですが、近年機器の小型化が進んだ事や電力消費が抑えられている事もあり単4形の流通量が増え、単1形、単2形は減っているのです。単5形は主に小型のライトや防犯ブザーに使用されます。

使用上の注意は多く液漏れや使用推奨期限が設けられており、更に使用済み乾電池のリサイクルや廃棄なども示されています。

乾電池の発明は特許は1885年にドイツのカール・ガスナー (Carl Gassner) が取得しました。この時の電池は液体電池でした。その後、その電池の性能に不満を抱いた日本の時計技師屋井先蔵が「液体を使わない乾いた電池」を作成出来ないかと考え、より取扱いが簡素でまた日本の寒冷地でも使用可能な時計用小型一次電池「屋井式乾電池」を発明します。

24歳という若さで乾電池を発明した屋井でしたが、資金難のために特許を取得することができず、この功績が評価されたのはかなり後の世になってからのこととなります。1892年(明治25年)日本の乾電池の特許の第一号が高橋市三郎によって取得されます。その後、金銭難から出願できずにいた屋井も乾電池の特許を出願・取得します。1896年(明治29年)アメリカ・エナジャイザー(energizer)社が、世界で初めて消費者向けの乾電池を発明します。そして1909年にタングステンのフィラメントによって、乾電池で動く最初の懐中電灯が登場し、これによって乾電池は小型電子機器の動力として世界中で普及します。その後も乾電池は普及・発展していきましたが、電池のノウハウを基に再充電の技術が生まれ、二次電池の開発、それから二次電池内臓のバッテリーの開発によって小型電子機器の電池は内蔵型電池を主に採用するようになりました。

乾電池が電力だけでなく、今までの開発・技術者達のノウハウも蓄えられているのです。

DVD規格

2016年 11月 22日

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DVDが世界中で普及しています。用途は主に動画再生ソフト、ゲームソフト、データの保存媒体などです。元々DVDはCDに続く「第二世代光ディスク」として開発された光学メディアです。今ではCDと比較すると記憶容量が倍以上で生産コストもCDと大差がないなどあらゆる点でCDに勝っています。

DVDは東芝や松下電器、パイオニア、日立などが共同で「SD」という規格を基に開発されました。VHSに次ぐ次世代映像メディアとして各社が開発していました。90年代初頭は、供給される容量に対してVHSの規格に限界が来ていました。そこで大容量が可能な光ディスク媒体を次世代の統一規格にしようとする動きがあったのです。ですがCDを開発したソニー・フィリップス陣営の規格「MMCD」と争っており、業界では1980年代のVHS対ベータ戦争の再来が危惧されていました。そこでIBM(正式社名: International Business Machines Corporation)がソニー・フィリップス陣営と交渉し、両陣営は合意に至りました。

この時にDVDの規格の策定に大きく関わっていたのは主力であった東芝の山田尚志という人物で、業界内では「DVDの父」と呼ばれています。

その後、DVDは2000年に発売された当時のトップシェアのゲーム機「プレイステーション」の次世代機「プレイステーション2」のソフトに使われる事になります。これがDVDの転機でした。PS2にはゲーム用途の他にDVDビデオの動画再生機能が備わっていたのです。しかも当時は専用のDVD再生機よりもPS2の方が安価でした。これによってPS2を買えばゲームを遊べて動画も見えるという大きな利点によって、瞬く間にPS2は大ヒット、DVDは爆発的に普及しました。

現在では次世代メディアBlu-ray(ブルーレイ)が既に存在しています。しかし、DVDは今でも前述した用途で幅広く用いられております。その規格の寿命の長さはVHSに匹敵するのではないでしょうか。ひょっとすればVHSより長続きするかもしれません。それほどDVDは優秀な規格なのです。

光ファイバー

2016年 11月 18日

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このページを見ている皆さんは恐らく端末のスマホやPCなどがネットに繋がった状態でしょう。今ではインターネットを見るのは光ファイバーかADSL、もしくはモバイルネットワークだと思います。その中でもADSLよりも高速なブロードバンド環境を実現した光ファイバー。これは電気信号をレーザー光に変換して情報を伝達するもので、長距離かつ高速な通信が可能になる方式です。この光ファイバーを開発したのは光通信の父と呼ばれた工学博士の西澤潤一という人物です。

原型となるガラスファイバーに光を通すという技術は世界各地で研究されていました。その中で西澤氏は1964年に「GI型」と呼ばれる独自の概念を特許庁に提出しました。が、その時の特許庁は意味がわからない言ってと不受理にしました。

その後も彼の研究は続き、1966年に「GI型」の概念をもとにして日本電気と日本板硝子の手によりセルフフォーカスファイバー「セルフォック」として実現されました。この時点での光ファイバーの速度は60dB/kmが限度でした。これはまだ実用化にはほど遠い速度です。

以後、光ファイバーの研究・改良が世界各地で進められ、1970年以降は光ファイバーの進歩が加速度的に向上しました。

1978年には、日本で光ファイバーの実用化に向けて東京の台東区と目黒区で光ファイバケーブルでつなぐ本格的な現場試験が開始されることになりました。7年後の1985年には旭川から鹿児島までを縦貫するネットワークへと発展し、1989年には太平洋横断海底ケーブルシステムを完成させることとなりました。こうして全国に光ファイバーを繋げることに成功した日本は世界の光ファイバ産業をリードしていったのです。

その後2001年、一般家庭での光ファイバを使った光通信であるFTTHが、Bフレッツサービスとして開始されました。そして現在、1本の光ファイバーの伝送能力は100Tbpsを越える程になりました。今では光ファイバーが設置型インターネットの主流となりました。

光ファイバーは更に進化を続けています。より速く、より使いやすく、より便利になっているのです。

こすると消せるボールペン PILOT FRIXIONボールペン

2016年 11月 15日

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学生時代にPILOTのFRIXIONボールノックというこすると消せるボールペンを愛用していました。
私は文系の学部に所属していたので清書前の原稿の推敲にこのPILOTのFRIXIONボールペンをよく使いました。
大学の生協のお店に売られていました。
シャープペンシルだと速く書けないし、ボールペンだと書き換えができないので清書前の推敲にFRIXIONボールノックを自然と採用するようになりました。
文章の書き換えの頻度が高い書き仕事に向いていると思います。たいへん便利で良い商品だと思います。
実際はFRIXIONボール・シャープペンシル・ボールペンの三本柱で筆記具を使い分けて使用していました。

FRIXIONボールはゲルインキのボールペンです。
「日本国内では2007年3月から発売をはじめています。(ヨーロッパでは2006年に発売されています。)」
私がお気に入りだったFRIOXIONボールノックは0.5mmと0.7mmの太さがあります。
ペンの後ろのラバーでこすると摩擦熱で書いた文字を消すことができます。
FRIXIONはPILOTコーポレーションが販売している筆記具のシリーズ名です。
FRIXIONのシリーズは他にもサインペン・色鉛筆・蛍光ペンなど複数の製品を販売しています。
複数色のFRIXIONボールや24色のFRIXION色鉛筆のシリーズもあります。

FRIXIONのゲルインキについて
「ボールペンに使用されているフリクションインキは1972年にPILOTの研究部所属の中筋憲一氏によって開発されました。
1975年に特許を取得しているメタモインキがベースとなっています。
FRIXIONのインキは高温になる場所に放置されると消えてしまいます。
逆に文字を消したメモ書きを冷凍庫などに入れてしばらく放置しておくと文字が復活します。
全商品に消去するためのラバーが付いています。
ラバーはスペアが販売されています。」
FRIXIONボールのゲルインキボールペン替芯も販売されています。
消しゴムのように使うフリクションシリーズ専用のフリクションイレーザーもまた別に販売しています。
(イエローグリーン、ピンクの2色です)
(フリクション (筆記具)「」wikipediaより引用)

セル画の歴史

2016年 11月 11日

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セルアニメというのをご存知でしょうか。セルという名前のキャラクターが登場するアニメという意味ではありませんよ。セルという名前の画材を用いて再生されるアニメの事を指します。かつては日本で当たり前のように使われていた形式のアニメです。セルアニメの絵をセル画と呼びます。なぜかつてなのか?なぜなら今では全くと言っていい程、セルアニメとセル画は使われていないからです。今ではCG技術で描かれたデジタルアニメが放送されているアニメが主流です。今回はセルアニメの説明と歴史を紹介したいと思います。

セルという画材は透明なシートです。そこに線画を描き、それから色を専用塗料で塗って着色します。アニメにする際は背景を描いた紙の上に、数枚のシートを重ね、動きのある部分のみを差し替えて、16ミリや35ミリフィルムで撮影するなどの方法で利用されます。

線画と着色、どちらの段階でも専門の知識と技術が必要となり、アニメ大国の日本ではセル画のアニメーターが数多くいました。しかし、1990年代を境にアニメ業界に大きな変革が起こります。この時代にセル画を用いず、専用機材を導入してデジタル彩色で作られたアニメ、所謂デジタルアニメの登場です。デジタル彩色はこれまでのアニメーション技術、特に彩色に掛かっていた大きな負担を軽減させるというメリットが有りました。例えば広範囲のベタ塗りなどはデジタル彩色なら塗料無しでマウスのクリックで完了する、などです。またデジタル彩色の導入により、色数の制約も事実上なくなりました。

1990年代後半から2000年代前半はCGとセル画のパートをそれぞれ用意して編集して一本の作品に仕上げる手法も取られるようになりました。セル画とデジタルを併用していた頃です。ですがそれ以降はセルアニメはデジタルアニメに淘汰されるようになっていきます。

その後、あらゆるアニメがデジタルアニメの一本化を進めて、最後にセルアニメを使っていたアニメは皆さんご存知のサザエさんです。今ではサザエさんもデジタルアニメです。こうしてセルアニメはサザエさんを最後に現行のテレビアニメから、すべて姿を消すことになります。今ではセル専用の画材や機材も貴重です。セル画の技術しか持たないアニメーター自身も一気に淘汰される結果となりました。

こうして90年代まで日本のアニメ業界を支えつづけてきたセルアニメは終焉を迎えてしまいました。

VHSと規格戦争

2016年 11月 8日

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皆さん、ビデオと言われると何を思い浮かべますか?ビデオとは今では動画自体の事を指すことが多いですが、今回はそのビデオの語源について説明します。ビデオとはVHSとも呼ばれていた自宅で簡単にテレビや映画の録画・再生ができるきっかけとなった夢の機械です。

かつて「ビデオ」と言えばこの商品を表すほど世界的に普及した家庭用の映像記録媒体です。このVHSは、1976年に日本ビクター社によって開発・販売されました。

当時は各社が独自の規格で映像媒体を販売しており、VHSもこうした数ある規格の一つでした。さまざまな規格が乱立していましたが、開発・販売が先行していた規格がカセットの大きさや価格の面で家庭用としては普及しませんでした。そして、最終的に残った規格がVHSとベータと呼ばれる2つの媒体でした。

この2つの媒体の陣営に日本の多くの電気会社が参加し「ベータ・VHS戦争」と呼ばれる争いにまで発展しました。

こうして家電品史上例のない規格対立戦争は1980年代まで続きましたが、一般的傾向としては録画時間が長く、また販売店の多かったVHS陣営が1980年代初頭頃から優勢になり、1980年代半ばにはVHSがベータにシェアで勝っているという認識が拡がっていったのです。1988年にはベータ規格陣営のトップであったソニーもVHSの併売に踏み切り、ベータ方式は事実上の市場撤退となったのです
なぜVHS規格が勝利を収めたのでしょうか?主な勝因は2つあります。
1つは販売戦略による要因です。VHS陣営は各メーカーや店舗に積極的にVHSを推奨しました。その為顧客がVHSを購入しやすい環境が広がっていき、シェア拡大に繋がりました。

もう一つは技術的な要因です。VHS方式はベータ方式に比べ部品数が少なく、精密・調整箇所も少なかったため、各メーカーの参入が容易で量産や低価格化がしやすかったのです。

これらによってビデオソフトメーカーが販売・レンタルともVHSに一本化したことによってソフトが充実していきました。

この結果によってVHSはDVDの普及まで家庭向けの映像の主力を担いました。

また、DVD媒体に移行してからもDVDはDVDビデオとも呼ばれたほどVHSの大きな影響力を残していたのです。