オートバイ

2017年 7月 7日

浜松のオートバイ産業は、昭和初期に遠州織機という会社がオートバイの製作を着手しましたが、製造業の多くが軍需品生産に移行する当時の状況の中、完成間近で頓挫してしまいました。
本格的な浜松のオートバイ産業は、太平洋戦争の浜松大空襲で焼け野原になった浜松の街から出発しました。
昭和21年(1946)、本田宗一郎が、陸軍で使用していた無線用小型エンジンを改良し自転車に取り付け試走したのが、浜松のオートバイ製造の始まりでした。本田は浜松市山下町にあった木造バラックの機械加工工場に本田技術研究所を設立し、原動機付自転車を製造・販売をしました。
昭和22年(1947)本田は既存の小型エンジンの改造ではなく、独自のエンジン開発に着手して「A型エンジン」を完成させました。山下町にあった工場の前には、通称六間道路が東西に通っていました。研究所の所員は、この六間道路を幾度も試走して、A型エンジンを積んだ原動付自転車を完成させました。
昭和23年(1948)には野口町の織物工場を買収し、エンジン組み立て工場に改造しました。原動機付自転車に満足していなかった本田は、BMWなどの外国のオートバイを手当たり次第に分解し、研究開発を進め、昭和24年(1949)にドリーム号という本格的なオートバイを浜松の工場で完成させました。
昭和27年(1952)に、本田はオートバイ販売の全国展開を進めるため、本田技研工業の本社を浜松から東京へ移転しました。この東京移転の最中、白いタンク・赤いエンジンカバーのカブF型が生産され脚光を浴びました。カブF型は、自転車に簡単に取り付けでき、女性でも気軽に運転できる原動機付自転車でした。
本田技研工業では全国の自転車販売店5万5千軒にダイレクトメールを送付し、全国から注文が殺到しました。この、カブF型が爆発的な売れ行きで、当時業界全生産の70%を占めた時期もありました。これに刺激を受け、全国でオートバイメーカーが濫立し、浜松にも30社以上のオートバイメーカーが生まれました。
この時期、設立したメーカーには、本田に無線用小型エンジンを提供した犬飼兼三郎のヤマトラッキー(ヤマト商会)、本田の弟子の伊藤正のライラック(丸正自動車製造)などがあります。多くのメーカーは昭和27年から28年にかけて登場し、一部のメーカーを除いてわずか1~2年で廃業や転業してしまいました。
昭和29年(1954)、浜松市葵町の旧陸軍飛行場跡地に本田技研浜松製作所を設立し、ホンダの二輪生産の拠点となりましたが、平成20年(2008)に熊本製作所に二輪生産を移しました。
中区山下町のホンダ発祥の地は、現在マンションが建っています。しかし歩道沿いにホンダ発祥の地の説明板があります。